看護学生・1年目の時に散々書かされたレポート集②-2【看護師・看護学生】【レポート辛い】【看護観】【ウィーデンバック】

さて!前回の記事の続きになります!

 

安吾理論を使った理由を書くレポートを書かなきゃいけない😢

・看護理論を使うときの選び方がわからない😢

 

などの参考にもなれば嬉しいです。

ではどうぞ!

(②-1を先に閲覧していただけると分かりやすいと思います!)

 

⇣ 本文 ⇣

 

現在の看護観として、思いやりや患者との信頼関係も大切であるが、より良い看護を提供する為に必要なことの大前提は知識と技術であり、何よりもまず継続学習と経験を積んでいく必要があると結論付けた。その思考過程を裏付けるウィーデンバックの看護理論を用いた履修について以下に述べる。

臨地実習では日々学びながら患者と関わり、関わる事で学べる事も多くあった。制限がある中で学生ができる事は僅かであるという事を頭に置きながらも、取り上げた事例以外に自分の至らなさを実感する機会がどの実習にも一度はあったと感じる。基礎実習では、長期臥床状態にあり下肢の脱力感に苦痛を感じていた患者から「足を揉んで欲しい」と頼まれマッサージをしたが、その患者は骨粗鬆症で皮下脂肪も少なく、圧の強さによっては骨折をさせてしまうリスクもあり、指導者から厳重に注意を受けた。より専門的な講義が始まる前の実習で、知識はほとんどなく病態アセスメント能力も低い事を自分での理解していたにも関わらず、軽率な行為であった。指導者とのリフレクションの中で、実施に至った根底には、マッサージは私にとって祖父母に対してすることもある安全な行為という認識があったことに気が付いた。この体験から、対象が心身に何らかの基礎疾患を有する場合、看護師として自分の行う行為が相手に与える影響を慎重に考えなければならないという事を強く学んだ。つまり、リスクを考える為にも病態や看護行為が及ぼす効果といった知識が必要不可欠であり、そうした知識に基づいて安全に看護を提供するための技術が必要であるとの考えに至ったのである。これと同時に、患者に必要な看護を提供する為にリスクも考慮した上で根拠を持ち看護実践をする事の難しさを実感し、病態は一人一人によって様々であり同じ症状の患者に同様の看護計画を立ててはいけない事を学んだ。ウィーデンバックは規定理論として、「看護過程は本質的には内面的な個人的な機構である。」と述べており、これが看護師の力量によって看護が白湯されるという、看護観の裏付けとして引用した一文と同義の一文である。

どの実習でも受け持った患者に対して看護過程を展開し、指導者から指導が入り、意見交換をする度に修正をしてきたが、その数だけ自分の考えた看護が直接患者に結び付く責任を感じた。十人十色の看護がある中でその重要性を何度も感じてきたからこそ、今回ウィーデンバックの理論を用いたのである。看護師として働き始めると、学生の時にあった制限はなくなり、学生以上に自らの行為全てに個人の責任が伴う。ここでいう責任として一番大切なことは患者の不利益にならない事であり、自分が知識不足であるばかりに最善を尽くせなかった経験からも、正確な技術と知識が前提にあってこそ患者の安全を守る事ができるのだと考えた。思いやりや信頼関係を大切だと感じる機会は多く、現在もその思いは強い。神座yへ「より良い」看護を提供するため、まずはこの3年間で幾度と感じた無力感と責任感を忘れず、今より少しでも多くの最善を尽くせるよう、自らの能力を向上させる努力が必要なのだと結論付けた。

 

 

誤字があったら修正します…!

(※個人を特定されないよう、内容を大きく改変しています。)

 

ではまた次回!(。-`ω-)